ミネルバの梟は黄昏に飛ぶのか-医療行為のリスク (再録)

今日ぼくらのデイ・サージャリー診療部に九州の大病院のご一行9名による見学隊をお迎えしました。
ぼくももうお終いと言うこともあり小一時間ほどKeynoteを使って運営を説明しました。
以前に使ったものを少し改変したのですが、「シュレーディンガーの猫」を使ったネタが入っていてなぜかこれが隊長の興味を引きこれについてしばし説明させていただきました。

録画してあったNHKのドキュメント「日本人は何を考えてきたのか」をまとめて見ました。

田中正造と南方熊楠の二人は「坂の上の雲」の対極にいるような人達だという中沢新一さんのコメントに同意。

この番組を見ていて思い出して「社会は絶えず夢を見ている」を再読しました。

この本のテーマというかキーワードの一つは「第三者の審級」です。

特に第三講ーこの本は大澤氏の講義録というような体裁を採っていますー「リスク社会の(二種類の)恐怖」はぼくにとっては重要な論考が展開されている章です。

これは患者と医療提供者との関係にも拡張して考える事ができると思ってそこら辺を考察してみようとおもっていたのですがネットを調べるとすでに大澤氏本人による考察が存在しました。あまりにも見事な論考なので紹介します。

医療についての論考の部分の冒頭を引用してしてみます。

リスク社会においては、第三者の審級が、二重の意味で――つまり本質と現実存在の両方に関して――撤退している。しかし、人はこの事実を否認しようとしている。現代社会には、「第三者の審級の二重の撤退」を示す徴候が、至るところに――とりわけ科学にかかわる領域に――見出される。

そうした徴候の一つとして、医療の分野における「インフォームド・コンセント」の流行を挙げることができるだろう。インフォームド・コンセントとは、医者が患者に手術などの医療措置について、その効能や危険性についてよく説明した上で、患者から同意を得ることである。インフォームド・コンセントは、どのような治療を採用するかを、最終的には患者自身に選ばせることだと解釈することができる。これ自体は、たいへん結構なやり方だ。

しかし、どうして、ことあらためて、こうしたことが推進されなくてはならなくなったのかを考えてみれば、われわれは、ただちに、これが第三者の審級の不在に対する対抗手段であることに気が付く。

現代医療を支配しているのは統計・確率の考え方だと思っています。evidence-based medicineの本質は統計・確率でしょう。臨床の医療行為はある意味では「シュレーディンガーの猫」が入っている箱を実際に開けるようなものです。このような現代医学は,患者とまたそれを提供している医師にとって「ほんとうの第三者の審級」として絶対的に君臨することはありません。どんな名医であっても原理的には「ほんとうの第三者の審級」の視点を提供できないのです。

「人は永遠に生きることはできない」という事実はすべての人間が共有している考えだとぼくは思いますが,患者はもちろん医者の中にも「人は永遠に生きることができる」という妄想というか言葉が悪ければ根拠のない希望を抱くものがあることが現代医療の抱えている根本問題の一つだとぼくは考えています。しかし同時にそのような希望を持つことは間違ってはいません。だからこそ現代医療の抱える問題が単純な処方では解くことのできないアポリアなのでしょう。

また医療はリアルな臨床の行為で有りその問題点をある視点から考えたと言っても実際に存在する問題が解ける訳ではありません。このような事情を無視した「安全管理室」的な発想が医療現場を蹂躙しつつあることに憤りを感じますー今日はこれが言いたいだけだったのですー。

 

ヘーゲルはナポレオンがイェーナに入場する姿をみて「世界精神が馬に乗って通る」と言ったそうですが,確かにこのような時代にはある種の「独裁者」が人心をつかむ局面があると思います。よいか悪いかはぼくは知りません。

社会は絶えず夢を見ている

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